担当:渡辺晴美
こんにちは。カウンセリングサービスの渡辺晴美です。
毎週土曜日は「婚活」をテーマにお届けしています。
小川カウンセラー と一緒に隔週で担当しています。今週は渡辺が担当です。
いつも御覧頂きありがとうございます。
最近アサリの酒蒸しにハマっています。
簡単に出来るし、とってもおいしいんです。
下にキャベツやたまねぎを敷いて蒸すと野菜の甘みとお酒のうまみが出て楽しめます。
いつもアサリの奪い合いになってしまいます。
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~豊か過ぎる感性~
今、これを読んでいる方の中には自分の事が好きではないと言う方も多いのではないでしょうか。
私自身も自分の事が嫌いでした。
嫌いと言うよりも、この世に存在している自分を認めていないと言うくらいでしたね。
自分の事が嫌い!
と言うときに、起こっていることの中で多くを占めるもののひとつに、
『人の良さは認めていて価値を見る事が出来ているけど、自分の嫌な面しか見えていない』
と言う事があります。
相手の良い所と自分の悪いところやダメなところを比較していたら、それは、自分がダメで嫌な陣減にしか見えなくなってしまいますよね。
イヤイヤ私はそんな良い人ではないし、自分はダメな人間なんです。
と、言いたくなる方もいらっしゃるかもしれませんね。
でも、そんなあなたこそ、実は素晴らしい人なんですよね。
優しすぎてしまったり、感性が豊か過ぎてしまったり、おっとりしすぎていたのかもしれませんね。
だからこそ、色んな事に傷ついてしまったり、必要以上に深く反省してしまったり、自己評価を落としてしまったのかもしれません。
あまりにも豊かな才能を持っていると、小さな頃はそれを使いこなす事が出来ずに、自分を傷つける材料となってしまう事があるんです。
才能が豊か過ぎて周りが理解できない事もありますし、逆に自己価値が低い両親であったらその才能に怯えてしまうかもしれません。
人は「わからない」という事がとても恐いですから。
人から拒絶されたり、理解してもらえないような経験を持っている方は、こういった事があるかもしれませんね。
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~心に生じた痛み~
自分自身を否定され、攻撃されると言うのはとても辛い事ですよね。
それが小さな頃であればあるほど、わけがわからず、自分の全てを否定され、攻撃されたかのように感じてしまいます。
こういった経験が一度でもあれば、深く心は傷ついてしまいます。
そして、自分を責め始めてしまうかもしれません。
自分が何か望んで起こした行動だったり、自分が誰かを愛そうとして起こした行動だったりしますよね。
人がする行動と言うのは、傷ついていなければ、愛を原動力とするものなんですよね。
だからこそ、否定され攻撃されたときには、本当に傷つくんですよね。
この時に、痛みから守る方法はいくつかあります。

これには、実際に攻撃する場合もありますし、心の中で攻撃している場合もあります。


でも、どのやり方を取ってみても、自分が否定され、攻撃された感覚は残ったままなんですよね。
痛みが心の中にとどまったままなんです。
そして、誰かを嫌った分、自分は愛されるに値しないってどこかで思ってしまいます。
誰かを嫌いたい人なんていないんですから・・・。
でも、目の前に憎らしいほどの人がいたら、嫌ってしまいますよね。
そんな自分を心のどこかで罰してしまうんですよね。
本当の悪党なら、そんなことに罪悪感なんて感じませんし、誰かを人だとも思っていないんですから。
でも、そんな心の痛みがたくさん、たくさんたまってしまっているのかもしれませんね。
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~心の痛みの中にあるもの~
心の中の痛みはずっと残ったままなんですよね。
でも、この痛みって本当にあなたを傷つけるものだったんでしょうか?
あなたの価値がないって証明するものだったんでしょうか?
私たちの中には、「愛しているんなら、こうは扱わないはずだ」と言う概念があります。
愛しているならば、大切に扱うのが当然ですからね。
でも、傷つき自分を嫌い、自分を悪魔のように感じているとき、大切な誰かを守るために、その人を拒絶したり、傷つけたりしてしまう事があります。
自分のそばにいたら、不幸が移ってしまうかもしれませんし、自分を嫌う人から攻撃されるかもしれませんから、守るためには、遠くにいてもらう必要があるんですよね。
戦場で敵国の領地で、自国の旗でも持っていたら攻撃されてしまいますし、伝染病だったら移ってしまうかもしれません。
そういう感覚と同じなんですよね。
あるいは、愛し方を教わっていなければ、大切なものをどう扱っていいかわからない事もあるんですよね。
もしかしたら、その人からの助けを求めるサインだったのかもしれません。
ずいぶんとわかりにくいんですけど・・・。
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あの時、誰かが自分に「×」を付けたように感じたのかもしれません。
あの時、自分が拒絶されたように感じたのかもしれません。
あの時、自分が攻撃されたように感じたのかもしれません。
確かに、現実の行動は、まさに、そうだったかもしれませんね。
でも、心の奥で起こっていたことは違っていたのかもしれません。
痛みが強い方ほど、ここは受け容れがたいところですよね。
そんなこと思いたくもないかもしれません。
でも、あの時傷ついたのは、本当は笑顔にしたかった人に逆に怒られてしまったとか、
認めて欲しかった人に、否定されたとか、大好きな人にそんな態度を取られたからなんですよね。
どうでもいい人に傷つけられても、そのときは傷つきますけど、それほど長い間は残りませんから。
認めて欲しかったのも、その人が笑顔で嬉しそうにしてくれるからなんですよね。本当は。
でも、役に立ててない自分がふがいなく感じてしまうんですよね。
愛が届かないからこそ、辛かったのかもしれませんね。
心の痛みの中にあるものは、『誰かを愛したかった』と言う思いなのではないでしょうか。
自分の中にあった優しさや感性の豊かさは、誰かの価値を見るためのものでもあったかもしれません。
でも、自分の素晴らしさを見るためのものでもあると思います。
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~もう一度、自分の欲に正直になる~
なんだか突拍子もないような話のように聞こえますが、遠い昔に心の奥深くでは、このような痛みが生じていたんですね。
すっかり大人になってしまった私たちは、あまりにも傷つきすぎて、そんなこととは違う次元の痛みが繰り返されているように感じてしまいます。
心の奥深くでは、自分が誰かを愛したかったけど、失敗してしまった、だから自分は価値がないんだ。
そんな風になってしまっているのかもしれません。
親と似たような人を好きになってしまったり、同じような恋愛を繰り返してしまうのも、愛せなかった誰かに対する罪滅ぼしなのかもしれませんね・・・。
傷つきすぎて、これ以上傷つきたくないと思う度合いが強いほど、恋愛や仕事に条件を付けてしまうかもしれません。
傷つきたくないと思う分、大好きな人が出来ても、安全な関係を保とうとしてしまうかもしれません。
大切なパートナーを持ちたいと思うときに、この自分が作った砦から出てみる事も、時には必要なのかもしれませんね。
*
子供時代の事を覚えていますか?
かつて、心がずたずたに傷ついていなかった時代。
私たちは、自分の欲求に正直でした。
大好きなおもちゃ
大好きなお菓子や食べ物
大好きなテレビ
大好きな友達や祖父母
これを手に入れたときの喜び
手に入れるためなら、全身全霊をかけてやる行動力と熱意
手に入れられなかったときの落胆・・・
覚えているでしょうか?
あまりに、痛みが強くて思い出せない方もいらっしゃるかもしれませんね。
たとえ赤ちゃんだったかもしれませんが、誰にでもそんな時代があったんです。
傷つく事に無防備になる必要はありませんよね。
だってこれ以上傷ついたら、生きてはいけないほど、十分に傷ついてきたんですから。
そんな風に自分を粗末に扱う必要はまったくないんですよね。
でも、少しだけ、自分の欲求に正直になってみても良いのではないでしょうか。
見たいテレビをお父さんに取られて見れなかったとき、悔しくて悔しくて涙が止まらなかったかもしれません。
クリスマスに頼んだプレゼントをもらえなくて、サンタさんを嫌ったかもしれません。
私たちには見えていなかったかもしれませんが、あの時、めちゃめちゃ悔しがったり、残念がったとき。
毎回ではないかもしれませんが、時折、その悲しみをぬぐってくれる出来事があったかもしれません。
でも、それに気がついていなかったり、受け取らなかったりしているんですよね。
例えば、おもちゃ売り場で、ねっころがってまで、欲しいって泣き叫んだのに、諦める頃、親が
「じゃあ、買ってやるか」
なんていっても、
「そんなん、もう、欲しくないっ!」
なんて突っぱねてしまったかもしれません。
遊園地に行けなかったけど、
「来週連れて行ってやるよ」
って言ってもらったかもしれません。
「来週じゃなくて、今日が良かったもん」
「来週、来週って言って連れてってくれた事ないじゃん」
などと、言ったかもしれません。
でも、その後でお父さんが帰ってきてから、家族そろって食事に行ったかもしれませんよね。
お菓子を買ってもらえなかったけど、次の日大好きなお菓子がおやつだったかもしれません。
そんな大人の優しさって見えないんですよね。
だって、そのときに満たして欲しいですし、後から起こった出来事は、当然のもののように感じてしまいますからね。
*
ここでは、自分が欲しかったものが後から手に入ったり、形を変えて手に入っていたかもしれないと言う事なんですね。
違うものだったら意味がない。
という気持ちももっともです。
ここで意識していただきたいのは、手に入れたいものが、まったく入らなかったわけではなく、形を変えていたかもしれない。
という事なんですね。
意識の中では、「自分が欲しいものは手に入らない」「私は望む人生を手に入れられない」そんな事がクローズアップされている状態ではないでしょうか。
こうなると、無意識に対して、私は「自分が欲しいものは手に入らない」人だ。
私は「私は望む人生を手に入れられない」人だと暗示をかけているようなものなんです。
形が変わっていたけど、手に入っていた事も大切ですが、悔しそうにしていた自分を見ていてくれた、残念そうにしていた自分をみていてくれた人がいたと言う事も大切なんです。
だからこそ、別の形で手に入った何かがあったのではないでしょうか。
もちろん、そんな風に恵まれているばかりではないかもしれません。
でも、一生のうちで一度くらいはそんな経験があるのではないでしょうか。
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自分の欲に正直であれば、傷つく経験も多くなってしまうかもしれません。
でも、その傷ついた自分をそのまま出す事が出来れば、きっとそれを応援しようって思う人も出てくるのではないでしょうか。
もちろん、子供のように、全ての人にそれを見せる必要はありませんよね。
でも、少しだけ自分の砦を出て、全力で好きな人にぶつかって傷ついたら、誰か味方になる人や、自分の痛みを受け止めてくれる人にそれを見せても良いのではないでしょうか。
自分が嫌われる事を信頼して、自分を守るために砦にいる事を選択して、真実のパートナーに会えないでいるよりも、少しだけ心が動く人に出会ったら、自分なりのやり方でぶつかってみてもいいと思いませんか。
自分が愛される許可を出してみてくださいね。
自分のやり方で通じないときには、真実のパートナーではないかもしれませんよね。だとしたら、他にパートナーがいるんですよね。
あなたの持っている才能をフルに使って、自分の素晴らしさを見て、相手の素晴らしさを見てみてくださいね。
そして、自分の心が「この人!」と動いたときには、いつもより、ちょっとだけ積極的になってみてくださいね。
あなたを応援してくれる人が、きっといますから、その人の愛を受け取りながら、素敵なパートナーに出会ってくださいね。
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