大好きだったはずの彼(女)なのに、おつき合いしているうちに相手が無性にちっぽけに見えてしまうことがあります。
「こんなくだらないことを言う男だったの?」、
「そんなに心ない仕打ちのできる人だったのか?」、
そして、「ばっかじゃないの~?」ってつい口走り、「あぁ、しまった。つい、ホンネがもれちゃった」と慌てて口を抑えてみたりして。
そんな時は、相手が見下されてもしかたがない理由はいくらでも思いつきます。どれももっともで、どう考えてもあなたが正しい。どこから見ても、相手が未熟で、間違っています。
「男としていかがなものか」、
「女としていかがなものか」、
「人間としていかがなものか」。
怒りがぐるぐると身体中をかけめぐり、頭の中ではもう100回は軽く相手が見下されるべき理由を反芻したのに、まだ足りないかのように同じ場面を再生します。あるいは、激しい怒りは収まったようでも、何とも言えない気持ち悪さやいやったらしさがつきまとい、相手と顔を合わせたくなくて思わず避けてしまう。顔を合わせても、ついシラ―っとしてしてみたり、あからさまに上から目線攻撃なんていうのもあるかもしれませんね。
困るのは、あなたが正しいはずなのに、正しいあなたが「気分が悪い」ということです。見下される方が気分が悪いのは当たり前にしても、見下す方も同じくらいかそれ以上に「気分が悪い」ことが多いです。
なぜか。
パートナーは鏡なのです。しかも、あなたが見たくないと思って上手に隠したか、切り離したはずのコンプレックスまで映し出すものだから本当に気分が悪くなります。
しかも、パートナーは、自分の「好き」という気持ちの対象で自分とつながっている存在だから、パートナーを見下すということは、自分の延長線上の自分を見下すことでもあって、自ら、自分の「好き」という気持ちを傷つける行為だから、相手を見下すことで自分の内側が壊れていくような感じもあるかもしれません。
だから、多くの場合、パートナーを見下しているときは、自分のこともさんざん自己嫌悪します。
その競争は何のため?
それにしても、何でそんなに相手が「見下されるべきだ」と何度も自分に言い聞かせなければならないのでしょう?
「見上げる」「見下す」は、どちらが上でどちらが下かを示す言葉です。「見下す」ときは、「私の方が上よ!」と言っていることになるのですが、「私が上よ!」ということをこれだけエネルギーを使って証明しなければならないと感じているとしたら、心のどこかで「そうではない。私は下だ」という声がしているということはありませんか。
人を見下したくなるとき、自覚はないかもしれませんが、「自分は下!」というコンプレックスを一生懸命押し殺そうとしているのかもしれません。
そして、どちらが「上」でどちらが「下」か、というこだわりがあるのは、そこに「競争」があって、負けたくないという気持ちがとても強くなっているのでしょう。
パートナーが同じ舟でいっしょに航海をする仲間だとしたら、二人が優劣を競い合う目的は何なのでしょうか。二人の目的地が違うのなら、それをはっきりさせる必要が出てきます。でも、もし、同じ目的地に向かおうとしているのに、「競争」しなければならない気持ちになっているとしたら、相手を見下す気持ちの裏で、自分のことを本当はもっと「わかってもらいたい」「見てもらいたい」と感じているのかもしれません。でも、素直になれないから苦しいのです。
自分を認めた分だけ素直になれる
「競争」を手放そうとすると、全身を敗北感と挫折感が襲います。だから、つい頑張ってしまいます。「もっと自分はできる(素晴らしい)」、「あんなレベルじゃないぞ」って。
でも、本当に大事なのは、これまで自分がどれほど頑張ってきたかをちゃんと認めることではないかしら。不十分なところも至らないことだってあるかもしれないけれど、それは人間だから仕方がありません。おかれた環境の中で、出来ること全てを誠心誠意やってきたのではないかしら?
相手にあなたの素晴らしさを認めさせようと闘うよりも、まず、あなた自身が自分が献身的に努力してきたこと、愛してきたことをもっと認めませんか。もっとそこに自信をもってもいいのです。
自分がやってきたことを認めた分だけ、相手の不足を許しやすくなります。そして、相手があなた以上にやってきたことに対しても労りの目を向けやすくなるようです。
相手を見下したくなるとき、それは、あなたがもっと認められたいと思っているときでもあります。頑張ってきた自分に「よくやってきたね」と優しく言葉をかけてくださいね。

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